2012年6月20日水曜日

治ることの悲しさ、つらさもある

たとえば、これは私があつかった例ではありませんが、自分は変な臭いがしているから人に嫌われていると思いこんでいる人がいました。いわゆる幻臭というもので、自分の足の先からオナラが出るから、みんなから嫌われているんだと思いこんでいたのです。

この人が入院して治療を受けていましたが、やがて完全に治って退院しました。そして職場に復帰した最初の日の晩、家族は赤飯を炊いて待っていたのですが、当人は裏山で首を吊って死んでいました。

本人はいやでしょうがない幻臭も、その人にとってはなんらかの意味をもっているのです。なにかはわからないけど、なんらかの要求があるからこそ、そういうものが出てくるわけです。それがなくなって普通の生活に帰るというときに、急にこわくなってくる。

ほんとうは会社でなにかいやなことがあって、会社に行きたくないから、そういう症状が出ていたのかもしれません。それなら、入院して会社から離れていれば、自然におさまってきます。

ところが、会社での問題は依然としてそのままですから、そこに復帰させられるのがこわい。まわりは赤飯を炊いて喜んでいるから、「ぼくはほんとは会社に行きたくないんだ」とも言いにくい。

それならいっそ死んだほうがましだということになる。とくに、まわりが「よかった、よかった」と大喜びしすぎると、よけい危険です。

だから、私は、治っていく人には必ず、「治ることの悲しさ、つらさもあるのですよ」という話をします。やや事情は異なりますが、夫婦で悪口ばかり言いあっていたのに、片方が死んだとたん、もう片方もすぐに死んでしまうという例がときどきあります。

口うるさい相手がいなくなってさぞやせいせいするかと思ったら、そうではなく、突っかえ棒がなくなって、自分も倒れてしまうのです。

つまり、お互いに悪口を言いあうことでバランスがとれていたわけですが、悪口を言う相手がいなくなったら、生きていけなくなってしまうというケースもあるのです。