2012年6月20日水曜日

普通になるということ

この点に関して、私には忘れられない経験があります。かなり症状が深い人でしたが、私のところで話をしたり、箱庭などをつくったりしているうちに、感覚が研ぎ澄まされてきたのか、そんなことは全然なかった人が、急にクラシック音楽をすごく好きになったり、むずかしい小説などを読むようになったりしだしたのです。

たとえば、三島由紀夫の小説を読んできて、そのことを感激して話され、それにはこちらも聴いていて感心するほどでした。しかし、その人自身は、「私はいつになったら治るんでしょうか」と言って、しきりに普通の生活をしたがっているのです。

そこで私は、「だけど、普通になるということは、朝起きてコーヒー飲んで、新聞読んで、満員電車に乗って、会社で決まりきった仕事をして帰ってくるだけなんですよ。

いま、あなたはそんなことはせずに、クラシック音楽を聴いても、小説を読んでも、私らの理解を超えるくらいすごいじやないですか。それに比べたら、そこらのみんな同じ生活をしている人だちと同じになるなんて、つまらんじやないですか」と言いました。

すると彼は、はっきりした口調でこう言いました。「先生、ぼくはそういう普通のことがしたいのです」これには、私も岸だとさせられました。

しかし、そういうこともすべてわかった上で、だからといって、私たちが普通の人をつくろうとしだしたらよくないのではないか、というのが私の考え方です。

だいいち、私たちが、普通の人をつくろうとしたからといって、つくれるものでもありません。心理療法家が、クライエントを普通の人にしようなどと考えるのは傲慢であり、大きな思い違いだと思います。