2014年5月22日木曜日

東アジアの安全保障をどうするか

東アジアの力の空白を埋めるべく、覇権の手をこの地に伸ばしてくる潜在的脅威は中国なのではないか、という惧れがしだいに強いものとなっている。理性的に考えれば、現下の中国の軍事力増強は、みずからの経済力の身の丈に合わせての増強であり、しかもしばらく前のあの老朽化した「水口」のごとき軍隊のことを顧みれば、中国の試みている軍事の近代化は理解をこえるものではない。

冷戦期の直中であれば、すべての国ぐにが当然とみなしたであろう中国の軍事力増強の動きが、甚大な脅威であるかにみえてしまうところに、脱冷戦期の不安定性の「心理学」がある。ASEANの「小国」が、この平和なアジアにあって、史上稀にみる軍事力の増強を図っているのは、脱冷戦期の不安定心理をなによりも端的に物語っている。

一九九四年七月、バンコクで「ASEAN地域フォーラム」が、ASEANの主導で開催された。私は、この地域に関心をもつ一八の国を集めたこのフォーラムのことを、「大国支配」のもとにあった小国群がイニシアティブをもってのぞんだ初の「新政治秩序構築」への動きである、などといった決まり文句で語りたくはない。むしろ、力の空白が生んだ脱冷戦期の不安定感を、関係諸国の「顔」を見合わせることによって、少しでも拭いたいという消極的な動きだとみている。CSCE(全欧安保協力会議)にみられるような、「構想」らしきものが提起される気配がこの会議にあったであろうか。率直にいって、ただ集まったことに意味があるかのごとくであった。

おそらく中国を別にすれば、東アジアのすべての国ぐにが、みずからの安全保障の「ラストーリソート」としてもっとも厚い信頼をよせているのが、アメリカであることはうたがいない。脱冷戦期において、ともすれば東アジアへの安全保障上のコミットメントを希薄化させかねないアメリカを、いかにここに引きとめるか。これが力の空白の東アジアを本当の不安定に陥れない、想定しうるほとんど唯一の方策なのである。ひょっとして、中国とてみずからの「覇権主義」を顕在化させない「保障」として、アメリカがアジアに安全保障上のコミットメントをつづけることを、密かに願望しているのかも知れないのである。

2014年5月2日金曜日

天性のヒューマニスト

話はさかのぼるが、一九五一年四月のことである。岡山県では折から県知事選が行なわれ、県下は三木(行治)か有力な対立候補かに二分されていた。二人の立候補者は県下を隈なく選挙運動のため走り回っていた。選挙も中盤になったある日のことである。県北で演説をしていた三木候補のトラックに一人のおじいさんが近づいてきた。なにやら紙を振りながら一声大きく「三木先生、これが先生に書いてもろうた処方です。あのときのご恩は忘れやしませんぞな。この地区の票は引き受けましたぞ」と叫んだ。おじいさんの手と三木候補の手はガッチリと結ばれた。

話は選挙のときから十数年さかのぼる一九三五年ごろの話である。当時三木さんは若手の医師として岡山簡易保険相談所長(いまの保健所の前身)をしていた。名医のほまれの高かった三木さんのところには患者が殺到した。三木さんは患者には必ず薬の処方漆を書いて近くの薬局で薬を買うようにすすめた。そうしたほうが医師が投薬するより安くついたのである(当時は健康保険に加入している人はごくわずかだった)。知事選挙のとき候補者のトラックに処方瀋を持って現われたおじいさんは、このように十数年前に三木さんの診療を受けて持病の胃潰瘍が治った患者だったのである。

三木さんは童顔だったが、それが患者にやさしい印象を与え、また同時に太っていたのでそれがたのもしく見えたという。脈をとり、ほほえみながら「大丈夫ですよ。すぐによくなりますから……」と話しかける。それからゆっくり診察しながら患者の家庭の状況などをきく。患者が自分のペースにはまったところで、病気の説明をして、最後にもう一度「大丈夫、すぐよくなりますよ」といって診察室の戸口まで送って出て「お大事に……」という。

患者の気持になって診察するこの三木さんのやり方は一九二九年に岡山医大を卒業以来、一貫して変わらなかったという。一九三〇年七月に徳島県の小松島診療所長を命じられて赴任したが、わずか七~八ヵ月の在任期間中にすっかり住民の信頼を集めて、開業医が二人も廃業したという。天性のヒューマニストであり、患者の心理のよくわかるドクターだった。