2016年4月2日土曜日

印米関係の 改善

二十一世紀の初頭大統領に就任したブッシュは、クリントンが世紀末に行った印米関係の改善を、さらに前に進めようとしていると見てよいだろう。もっとも、九・一一事件の突発によって、国際的な反テロ活動を推進した米国は、イスラム過激派を押さえ込むために地政学的に重要なパキスタンとの関係を再び見直さざるを得なくなった。過激派に対する支援を取りやめる代償として、パキスタンへの援助の再開を行ったのである。しかし、冷戦期のようにパキスタンへの支援が直ちにインドへの反発を呼び起こし、印米の関係改善を阻むという構図は崩れつつある。

米国の世界政策の位置づけのなかで、印パ両国を直接関係づけることなく別途に扱う外交が、ブッシュのもとで展開されるようになった。これは結果的に、慢性的な政治不安を抱え米国の望む民主主義国家の期待に応えていないパキスタンよりは、軍事的・経済的に台頭しつつあるインドに傾斜した政策となって現れる(岡本幸治「アメリカ中枢テロの衝撃とパキスタン」「新たな戦争とインド・パキスタン」「米印両国、軍事同盟締結へ?」『問題と研究』参照)。

二〇〇四年一月にブッシュ大統領とバジパイ首相が同時に「戦略的パートナーシップのための次の措置」の構築を始めると宣言したが、それ以降の印米関係の進展は、インドにおける政権交代にもかかわらず目覚ましいものがある。二〇〇五年七月にシン首相が訪米したとき、米国は最高級の国賓級待遇で歓迎している。共同宣言は両国関係のグローバル・パートナーシップヘの格上げを謳いあげ、経済分野の関係強化が強調された。その際に「インドは高度技術を有する責任ある国家として、他の同様の国家と同じ利益と便宜を取得すべきである」という注目すべき表現があり、その具体策についても言及していた。それは核拡散防止条約の未加盟国には供与されない核関連の技術と設備を、インドに対しては例外的に認めようとするものであった。

2016年3月2日水曜日

水の配分を工夫する

米国北西部のワシントン州は、森や川など自然に恵まれ九州だ。オルワー川は、同州のオリンピック半島にあるオリンピック国立公園の山岳地帯からファンニアーフカ海峡に注ぐ、美しい川たった。ところが、一九一三年に下流に高さ百三十二メートルのオルワー・ダムが、一九二七年には上流に高さ六十四メートルのグラインズーキャニオンーダム、かできた。年間の漁獲だけで三十七万匹という大量のサケがのぼっていた川は「死」んでしまった。

二つの発電用のダム建設で大打撃をこうむったのは、下流地域でサケをとって暮らしていたクララム族というインディアン(アタリカ先住民)で、長年にわたって両ダムの撤去を訴えてきた。彼らの主張を支援していた人権団体に、一九八〇年代になると、自然の川を取り戻せと主張する自然保護団体も加わり、撤去運動は連邦議会でも共感を広げていった。

議会は一九九二年、「オルワー川の生態系と漁業を回復する法案」を可決し、両ダムの撤去にゴーサインを出し、ジョージーフノソユ大統領も同年十月に同法案に署名して法案は成立した。自然保護団体は、発電でえられる利益よりも、クララム族にサケを返し、自然をとり戻せば、釣りをはじめとする観光客も増えて、撤去は経済的にもプラス、と主張していた。議会が、ダムより人権や自然保護を優先させたことは、新しい時代の到来をしめした。日高山系から太平洋に流れる沙流川に、必要性に疑問のある一一風谷ダムをつくってアイヌ民族の聖地を水没させたばかりの日本との落差は大きい。

全米各地で川の自然回復運動が盛んになっている。先頭にたっているのは、自然保護団体であり、釣りの愛好者たちである。ダムの建設の時代は終わり、環境、レクリエーションなども勘案して撤去するものはする時代に入っている。日本でも、たとえば、熊野川の支流で、観光いかだ流しで有名な北山川は、上流に行くと戦後つくられた小さな発電所のダムにせき止められ、アオコに覆われたドブになり、美しい渓谷は台なしになっている。その後、周辺に巨大な発電ダムができているのだから、撤去して清流と渓谷美を取り戻すほうが、地元の経済にも大きなプラスになるはずだ。

2016年2月2日火曜日

暫定的に認めた自衛権行使

こうした集団的安全保障が発動されなかったらどうするのか。緊急時に無保護にさらされる国の安全はどう守るのか。こうした中小国の要請を受け、同時に地域的な組織の自立性に配慮して設けられたのが、第五一条だった。しかしこの「個別的・集団的自衛権」の発動は、「武力攻撃の発生」を条件として、「安保理か国際の平和および安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という制約のもとに、暫定的に認められたに過ぎなかった。

ところで、こうした憲章の考え方に照らしてみると、日本国憲法第九条はどう解釈できるだろうか。第九条一項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」と定めている。

読んですぐにわかるように、この規定は、憲章第二条に対応している。戦争のみならず、「武力による威嚇または武力の行使」を含めて、「国際紛争を解決する手段としては」永久に放棄すると定めた内容だ。問題は、この「国際紛争を解決する手段としては」という表現の意味にある。これが、違法不正な侵略戦争のみを禁止し、自衛戦争や制裁戦争については認める趣旨なのか、それともあらゆる戦争を問わず禁止する規定なのか、ただちには断定できない。

これを、パリ不戦条約の延長ととらえれば、前者の解釈になるだろう。というのも、不戦条約の締結にあたっては、国際連盟規約などによる制裁と自衛戦争は、これに含まないという了解があったためだ。だが、憲法制定当時の事情に即して言えば、この解釈は成り立だないだろう。

国際連合は、パリ不戦条約の限界を踏まえ、集団的安全保障という強制措置の発動を前提に、包括的な戦争の追放を定めたからだ。憲章は「慎まなければならない」としているが、憲法第九条ではこれを受けてさらに徹底し、「永久に放棄する」という強い宣言によってこの精神を具現化したと言える。

2016年1月5日火曜日

進化論の影響

フランスでは、モレル(1809~1873)が「人類の身体的・知的・精神的変質論」(1857年)を著わし、その宗教的世界観から、「変質は人間の正常型からの病弱的変異であり、遺伝的に伝えられて絶滅に至るまで進行するものである。」と考え、変質の原因として、中毒、社会的環境、病的気質、精神的疾病、先天的・後天的不具、遺伝性の七つをあげている。

ダーウィンが進化論を発表して以来、変質論にも影響を与え、マニヤン(1835~1916)は変質を進化論の意味における退行としてとらえている。マニヤンは、アルコール中毒者において変質を研究した点でも有名である。

また、変質論に関連して、天才と精神異常者と犯罪者の問題が大いに論じられるところとなり、イタリアの精神医学者、ロンブロソ(1836~1909)は「犯罪者」(1870年)という本を出して、犯罪人類学を唱えた。

なお当時の英国の神経学者、ジャックソン(1834~1911)も進化論の影響を受けて、中枢神経系は、前頭葉皮質、脳幹神経節、脊髄と延髄の三層からなり、精神疾患は前頭葉皮質の脱落により、癩病は下層の機能、の促進したためにおこると考えた。

このように臨床精神医学の研究がどんどん具体的におしすすめられてゆくにしたがい、精神病の分類ということが問題になってきた。

それまでの精神病は、癩痢、進行性麻疹、老人性精神病、偏狂、メランコリー、噪病、慢性幻覚精神病、パラノイア、失語症、ヒステリーなどが個々に発見され、ばらばらに記述されるのみであったが、ドイツのカールバウム(1928~1899)は初めて「精神病の分類」(1863年)を公にして疾病単位の観念を述べ、妄想病、緊張病についても述べて学界に大きな反響をよんだ。彼の弟子のヘッケルは破爪病について研究し発表している。

ところでヒポクラテスによってパラノイアと名づけられた妄想病のある面白い一症例が、ドイツのフォンークライスト(1777~1813)によって描かれている。

十六世紀にドイツに住んだコールハースというある正義感の強い地主が、ある時、馬商売のために馬をひきつれてサクソニアのある王様の領地を通ろうとすると、たまたまビザを持っていなかったために通行禁止となり、だまされて馬をとられてしまった。

ビザを取りに帰。てまたもどり、馬を返して下さいと頼んだところ、馬はすっかりやせおとろえて使い物にならない駄馬になっていた。馬につきそっていた召し使いは所持金をうばわれた上、たたき出されていたのである。

怒ったコールハースは中央政府に訴えたが、とり扱ってもらえず訴訟をおこすたびにそれは破棄され直訴に出かけた妻も殺されてしまった。復讐にもえたコールハースは、土地、屋敷を売り払って小さな軍隊をつくり、その王様を捕えようと城に放火し、掠奪してまわった。

コールハースの軍隊はしだいに大きくなり、サクソニアの首都ライプチヒにまで近づいたが、自分を天から下った大天使ミカエルだとなのり始めていたコールハースは、当時の有名な宗教改革者、ルーテルに説教されて王様を許すようにいわれる。

いったんは譲歩した彼だ。たが、解散したゲリラに再びかつぎ出されてあばれまわったため、とうとう捕えられて焼身刑に処せられたのである。彼は最期まで正義を貫いたつもりで、満足して死んでいったという。