2013年12月25日水曜日

冷徹な評価者

こうした授業ガイドが、一人一人の教授の実名と授業名ごとに、登録している学生の数から、評価の平均得点や学生のコメントまでついて公表されるわけだから、いくらこれが最終的な教師の評価ではない、とされていても、教授にとっては事実上の勤務評定としての圧力となる。学生にとってはその教授の人気度とか、成績の難易度などをおよそ見当をつけることができるわけだから、たいへん便利なシステムである。

こうした授業評価は、学生との授業改善に役立つというメリットもあるが、同時に教員が学生に媚びて成績を安売りするとか、人気を気にして妥協するといったデメリットもあり、そもそも学生に教授の講義の評価能力があるのかといった疑問も出ている。教授の中にはあんなくだらない試みはクソくらえと考えている人も少なくない。しかし、事実として、学生による授業評価はいまや全国的に広まっている。

こうした授業評価が行なわれるようになったのは、直接的には六〇年代末の学生運動がきっかけとなったとされているが、根底的には、アメリカ社会の消費者保護の思想に連なるものではなかろうか。大学教育というサービスを適切な選択をできるように、先輩が授業をどう評価しているかの情報を提供し、消費者の権利を保護するという考えである。つまり料理のよしあしは、料理を食べた者に判断させるべきだという考えである。どんなに著名な学者でも、まず教師としての授業評価をまぬがれることはできない。なぜなら、アメリカでは大学教授の任務は研究能力もさることながら、まず第一に学生の教育にある、と考えられているからである。

数年前カリフォルニア大学バークレイ校に留学中、息子が通っていた中学校の卒業式に出たことがある。司会の生徒が一人一人の教師たちを舞台に呼んで感謝状をわたすときであった。そこでは教師の名前が呼ばれるたびごとに、生徒が一斉に拍手したり声を上げたりする。しかも拍手や叫び声は、教師によって大幅に違うのである。つまり校長先生であろうと新任教師であろうと、人気のある先生、慕われている先生とそうでない先生との間には、生徒たちによる厳たる評価の違いがあることを、会場を埋めた父兄や全生徒の前ではっきりと拍手の量で示してみせるのである。子供たちによる最後の教師評定のあからさまな賞賛と残酷さとを私は戦慄が走る思いで見たのであった。アメリカ人はまず子供のころから、冷徹な評価者であること、しかも評価を人前で表明することを当然とする風土に生きているのである。

アメリカの大学の授業に出だことのある人は、教室とはいかに学生と教師との対決の場面であるかに驚くであろう。とりわけまだ若くて、経験の乏しい教師の場合は、授業は針のむしろであろう。教師は講義やディスカッションで、学生の質問めにあう。いかに鋭い質問も、どんな意地悪い、あるいは幼稚な質問でも、教師は学生の質問を尊重し、上手に説明したり、適当にいなしたり、反論したりする術を身につけていなければならない。特にまだ終身在職権を獲得していない若手教師にとっては、学生の評価の低さは自己の今後の身分の保証に影響するから、授業はまさに自己のサバイバルがかかっている場である。学生の授業評価の結果は、しばしば若手教師の昇進の審査の際に、教師の教育能力の評価のデータとして利用されることが多いからである。