2014年12月2日火曜日

経済データはインターネットで得る

米国のホームオフィス事業主数は、一九九一年には一○○○万人であったが、九六年には二○○○万人に増加し、現在では四〇〇〇万人をこえているといわれる。その内訳は、企業テレコミューターが七六〇万人、勤務後に自宅で仕事をするテレワーカーが九二〇万人、自宅で仕事をする自営業やフリーランサーが二四三〇万人といわれている。ホームオフィスは、一九九〇年代の米国経済の再生に大きな役割を果たしたと評価される。二〇〇〇年には、テレコミューターだけで二五〇〇万人をこえるともいわれている。

ジョージア州アトランタでは、九六年のオリンピック開催をきっかけに、在宅・サテライトオフィス勤務が広まった。もともとアトランタは、全米一の交通渋滞都市といわれていた。オリンピック期間中に大混雑が予想されたため、テレコミューティソダが急速に広まったのである。現在では、アトランタ市の労働者の二三%が頻繁にテレコミューティングで働いており、時々働いているものも含めると五〇%に達するという。

AT&Tでぱ、社員の五五%がテレワークをしているといわれる。テレワークを導入したのは九二年だが、以後、企業の規模縮小が推進されたことにともない、すべての社員にデスクが必要ではないとされるようになり、オフィススペースの削減が進んだ。SOHOを「二〇人以下の事務所を構えるサービス業、情報関連、有資格業種」として捉えると、日本のSOHO人口は、推定約六〇〇万人だという(ただし、日本のSOHOに関しては、ほとんど調査が行なわれていないため、正確な数字はわからない)。

インターネットは、研究者の仕事スタイルにも、大きな変化をもたらす。たとえば、経済の実証分析を行なうには、統計データが不可欠だ。このため、印刷物の統計集を多数揃えていなければならなかった。しかも、つねに最新のものにアップデイトしてゆかなければならない。これは、多大の労力を要する仕事だった。

しかし、最近では、インターネットを通じて、かなりのデータが入手できるようになった。経済統計データは、無料で入手できる「公共財」になりつっある。これらの多くは、税金で賄われる政府活動で作成されるのであるから、こうした状態になるのは、当然だ。米国では、経済データの多くが、すでに公共財になっている。

2014年11月3日月曜日

製販同盟

こうしたディスカウントーストアの手法は百貨店や大手スーパーによって積極的に採り入れられつつある。百貨店は従来の返品制を見直し、「買い取り」制にすることで納入業者の負担を軽減して、その分仕入れ単価の引下げを実現しようとしている。また、最近「製販同盟」という言葉がマスコミにたびたび登場している。これは、メーカーと大手小売資本が協力して低価格商品を共同開発するというもので、味の素とダイエーの提携が典型である。

両社は共同で食品を開発、味の素が生産してダイエー系列の小売店、外食店に供給する。メーカーの技術と流通の消費者情報を組み合わせれば、開発コストを大幅に引下げられるし、また大手グループ同士が協力してそれぞれの商品を大量かつ計画的に生産することで、生産・物流両面でのコスト低下が実現できるというものである。その際、共同開発した食品ぱ世界に二九ヵ所ある昧の素の海外工場を生産拠点としてダイエーに供給するとされており、海外生産によるコスト削減も織り込まれている。

こうした包括的な提携関係にいたらずとも、すでに特定品目についてのメーカーとの「格安ブランド」の共同開発は多くのスーパーや百貨店が実施している。ディスカウントーストアの低価格戦略がそのまま他業態の大手小売資本に波及しているわけである。

しかし、こうした戦略が効果を上げるためには、売上げ数量の拡大による仕入れ力の上昇が不可欠となる。ダイエーと忠実屋の合併、イトーヨーカ堂とその子会社セブンーイレブンージャパンとの商品や素材の共有化による大量仕入れの試み、また酒類ディスカウントーストア三社によるドイツでのワイナリー(ぶどう酒醸造所)の共同運営や共同仕入れ会社の設立など、そのことを実証する事例は多い。今後、こうした「規模の利益」を求めて流通業界に一段の再編成の波が訪れるとする予測もうなずける。

2014年10月2日木曜日

自然環境を破壊する

発展途上諸国には、飢餓と貧困に苦しむ人々が数多くいます。地球温暖化が進むと、環境難民が飛躍的にふえることについては、前にくわしくお話しました。その大部分は農村に往んで、農業に従事している人々です。どうすれば農業をさかんにして、農村を活件化することができるだろう。これから二十一世紀にかけて、おそらくもっとも重要な政策的課題となるのではないかと思います。

この課題に対して、制度仁義の考え方にたつとき、どのようなり答が似られるのでしょうか。そのために、日本の農業がなぜこのように衰退してしまったのかを考えてみましょう。農業は、イネ、コムギなどの農作物をつくったり、鳥、豚などの家令を飼って、食川にあてる営みです。そのほかにもワタの綿花から本絹をつくったり、蚕の剛から絹をつくって衣服の原料とするのも農業です。森林から本材を伐り出す林業、海や川から魚介類をとる漁業も、ひろい意味での農業に今めて考えることもあります。しかし、農業の中心はやはり、川畑を耕して、植物を栽培して、食料にあてる営みといってよいと思います。

いずれにしても、農業は、生物を使って、その生命現象をうまく利川して、人類の生存、生活に必要なものをつくりだしているわけです。植物の場合、大陽エネルギーを使って、人気中の二酸化炭素と水を酸素と炭水化物に変えて、すべての生物が生きてゆくために必要な有機物をつくりだしています。この点、農業とは決定的に異なっています。生産に程で化石燃料の大量の消費を必要としますが、農業部門では、化石燃料を使わないでも、生産活動をおこなうことができます。

植物は、葉から、ニ酸化炭素を吸収し、根から地中の水を吸い上げて、葉緑素を使って光合成をおこない、酸素と有機物(炭水化物)をつくりだします。呼吸は、光合成によってつくりだされた炭水化物が酸素と結合するものですが、そのときに出されるエネルギーを使って、植物は、水や地中の有機物を吸収し、蛋白質、脂肪などをつくって成長しつづけることができます。食動物は、植物を食べて生きています。その草食動物を肉食動物が食べるという食物連鎖がつくられ、人間がその頂点にたっているわけです。

農の営みはもともと、太陽エネルギーと二酸化炭素という無限に存在する資源を使って、人類が生きてゆくために必要な食料をつくってきたわけです。工業は、化石燃料という限られた量しか存在しない資源を大量に使って、自然環境を破壊するだけでなく、大気中にニ酸化炭素を放出し、地球温暖化をひきおこしているのです。しかし、農の営みが、農業として、それに従事する人々の生計を支えてゆくためには、農機具、農薬などという工業製品を使い、電力、ガソリンなどを大量に使っています。

自然環境を破壊することなくヽまた二酸化炭素の放出量をできるだけおさえて農業をおこない、しかも農民がゆたかな生活をおくることがはたして可能でしょうか。この問題は、いま日本が直面しているいちばん重要な課題の一つではないでしょうか。

2014年9月2日火曜日

総合金融化路線の盲点

批判を受けて、SECは十二月にようやく重い腰を上げて、証券化商品の格付けの透明性を高めるために格付け会社の報酬体系を抜本的に見直す方針を固めた。各国政府は格付け会社を包括的に監視する国際機関の設立を検討している。米国としてはそれに先駆けて国内ルールを整備する。ムーディーズやS&Pは証券化商品に関連した格付けビジネスで業績を伸ばしてきた経緯があり、今後は新たな収益源の模索を迫られる。○八年六月十三日、米大手銀JPモルガン(現JPモルガンーチェース)会長兼最高経営責任者(CEO)だったデニスーウェザーストーン氏ががんにより亡くなった。七十七歳だった。

融資から証券取引までさまざまな金融業務を展開したウェザーストーン氏はその革新的経営で知られる。米国で八〇年代から九〇年代にかけて、それまで商業銀行に禁止されていた株式引き受けなど証券業務が解禁されたのはウェザーストーン氏のおかげだ。そもそも、米国では大恐慌時代の反省から、一九三〇年代から銀行と証券の垣根を定めたグラスースティーガル法が制定されていた。だが、ウェザーストーン氏による米政府への働きかけにより、それまで禁止されていた銀行グループによる証券引き受けが六十年ぶりに復活し、その後九九年にグラスースティーガル法が見直される先駆け役を果たした。

証券引き受け、市場取引、融資など幅広い金融業務を提供する「ウッストップーショップ型」は、大手銀シティコープと大手証券ソロモンースミスーバーニーを傘下に抱えるトラペラーズーグループの合併による九八年のシティグループの誕生で、ウォール街の定番ビジネスとなった。ウェザーストーン氏が推進した規制緩和路線は、金融機関の収益拡大や資本市場の拡大につなかった半面、サブプライムローン問題の端緒になった野放図な不動産の証券化など高リスク事業も産んだ。

金融機関が債権者、引き受け、自己投資とさまざまな顔を持ち始めたことで、金融機関と顧客である投資家や企業との間で「利益相反関係」が生まれたのも事実だ。「驚きました。各当局が『金融危機を解決する監督権がない』と告白するのです」○一年から○三年までSEC委員長を務め、現在コンサルディック会社を経営するハーベイーピット氏はため息をつく。「銀行と証券の垣根を定めたグラスースティーガル法がなくなり、金融の自由化が進みました。だが行政組織の垣根が残って、規制の網が行き届かなかった」。

米国の規制緩和路線は、金融機関の収益拡大や資本市場の拡大が当初目的だった。例えば、メリルリンチやリーマンなどは証券会社なのに住宅ローン会社も経営しており、グループで融資したローンを証券化するという「川上」から投資家への販売という「川下」までを一貫して手掛けた。だが、一連の規制緩和に対して、規制当局が金融機関のリスク管理を監督していなかった結果、借り入れが膨らみ、融資基準が緩くなった。SECでは証券会社のリスク管理の監督部門を事実上廃止している。ピット元SEC委員長は、金融監督は現在のような業態ごとの縦割りでなく集約するべきだとみる。金融システムを監督する当局と業者を監視する当局の二つでいい。前者はFRBが担い、後者はSECとCFTCを統合させ、証券、保険、銀行などあらゆる業者を一元監督させる。現在、州政府が担当している保険監督局は後者に吸収させるのだという。

2014年8月5日火曜日

人間レオナルドの真実

「それをわれわれは、彼はナルチシズム(またはナルシズム)の途上で愛の対象を見出すというふうに表現するのである」前にも述べたように、人間の愛情の発達過程には三つの段階が考えられ、自分の身体そのものを性愛の対象とする「自体愛期」、自分自身に愛情を向ける「自己愛期」、最後に自分以外の人を愛する「対象愛期」にわけることができる。そして、自己愛期は自分の性に似た者を愛すること、すなわち同性愛と密接な関係がある。

父不在で育てられたレオナルド炉母への愛情(幼児性欲)を抑えこんだ結果、自分自身を母の立場におき、かつての母から独占的に愛された自分を美しい青年たちへの愛へと変化させたのである。結局、これは同性愛の形式をとった自分白身にむけられた愛情、すなわち自己愛なのである。同性愛というのは自己から異性へと性愛の対象を移していく過程で、自己とよく似た性器をもった同性を性愛の対象とするわけで、自己愛的性格の人はしばしば同性愛的空想や行為を示すのである。

フロイトは、このレオナルドの芸術分析ではT言「ナルチシズム」という用語を用いているのみで、それ以上のことについて言及していないが、その後「シュレーバー症例」(一九一一年)、『ナルチシズム入門』(一九一四年)、『精神分析入門』(一九一七年)で、いま述べた考え方をさらに発展させていくわけである。

ところで、美術史上のレオナルドは天才としてあまりに理想化されており、もっとも古いグァザーリの記述でも、すでに彼の神秘的な姿を伝えている。したがって、ここで述べたようなナルシスト的な人物像としてのレオナルドを描くことには抵抗を感じる読者もいるかもしれない。しかし、ジャーナリストではあるが、かえって歴史家よりもレオナルドの真実の人間像を適確に描写していると思われるので、モンタネッリの『ルネッサンスの歴史』からの引用で、この章を終りたい。

2014年7月16日水曜日

町民の意識的サボタージュの結果

五八年一一月。最高裁判所の判決で、この格差がおおむね三倍以上になれば違憲状態であるとの判断が示された。その後、六〇年一〇月に国勢調査、か行なわれ、て一月に速報値が公表された。それによると最大格差は五し六倍という開きとなった。これを三倍以内にするためには、一〇地区で一名増、一〇地区で一名減。つまり一〇増一〇減を行なうことが必要とされた。

六一年五月になって八増七減と大分二区、愛媛三区、和歌山二区については境界変更という裁定案が示され各党が了承した。増員区は東京周辺と大阪、北海道一区。減員区はすべて過疎地域だ。大分県では一区にある大分市に隣接する挾間町を別府市のある二区に編入して減員を免れたが、突然の編入に町は大騒動となった。地理的にも経済圏としても大分市とのつながりが深い町が、なぜ隣の二区に編入されるのかと抗議集会が相次いだ。

そして六一年七月に行なわれた衆参同日選挙では、この町の投票率は七〇・四%で、県平均八十六%に比べて極めて低調であった。これはゲリマンダー二八二一年にマサチューセッツ州知事デリーが行なった選挙区割りの結果できた選挙区の一つが、サラマンダーに似ていたため、それをもじって新聞記者がゲリマンダーと呼んだ。以来、政略的選挙区域変更のことをゲリマンダーと呼び憤慨した町民の意識的サボタージュの結果ともいえる。

このように過疎と過密の同時進行によって大都市選出国会議員の数が増加し、過疎農漁村選出議員の数、が減少する。これによって地方の声はますます政治に反映されにくくなる。かつて都市部の票は革新、地方の票は保守といわれたが、最近では地方の方に政治不信の声が一段と強まっている。これも農業をはじめ過疎地域の住民の声が政治に反映されないことへの不満の表れであるとみてよい。

2014年7月2日水曜日

東アジアの構造調整

一九九〇年代に入るや、日本は厳しい経済低迷に見舞われ、東アジア諸国からの製品輸入、東アジア諸国への企業進出にかつてのような力はなくなった。ところが、これを補ってあまりある力を、実はNIESがASEAN諸国と中国に与えはしめたことが目される。すなわち近年のNIESもまた、内需主導型成長戦略に転じ、後発国の需要吸収者機能を強化しつつある。

加えて、NIESは後発国に対する大きな投資者としても有力な存在となった。その結果、NIESとASEAN諸国・中国とのあいだに補完的な関係がいちだんと強まっていった。台湾、香港、シンガポールといった在外華人国の場合、ASEAN諸国・中国の華人資本との連携が密であるというのも好条件となっている。実際のところ、香港・広東省を結ぶ「華南経済圏」、台湾・福建省を結ぶ「海峡経済圏」は、今日すでに「統合化」へのハーフウェイをはるかにこえてしまっている。

中国がその新戦略を、東アジアに渦まく激しい構造調整と貿易・投資構造の再編期に提起したのは、的確な判断だというべきであろう。趙紫陽は、さきの戦略表明のなかで、そうした東アジアの状況をたしかな好機ととらえ、「現在の好機を急いで生かすためには、沿海地域はこれに見合った発展戦略をもたなければならない。

全般的には、一億余から二億の人口をもつ沿海地域がしかるべき指導のもとで、計画的に、段取りを追って国際市場をめざし、国際的な交換と競争にいちだんと積極的に参加し、外向型経済を大いに発展させなければならない。これは戦略問題として対処されるべきである」、と表明した。的確な判断である。

改革・開放は、この十数年の過程で中国経済のなかにすでに強囚に「ビルトイン」されており、インフレや所得分配の不平等化に悩まされながらも、国民の大多数はこの路線の「受益者」なのである。「沿海地域経済発展戦略」は、これを長期的な視野からながめれば、中国近代化にとって他に代替策のない開発シナリオである。

「放」(改革積極派路線)と「収」(保守慎重派路線)をくりかえす、中国政治に固有の「政治サイクル」はなお避けえないにしても、中国がその国是である経済近代化を断念するのならいざ知らず、そうでない以上、結局のところ全体としての方向が沿海地域発展戦略の方向に収斂していくであろうことは、まちがいあるまい。

2014年6月17日火曜日

高血圧の新しい診断基準

一九九七年一一月、アメリカ高血圧合同委員会(TNC)がWHOの基準では決して安心できないと、新しい基準を発表しました。それによると、最も望ましい(最善)のは、一八歳以上で、最高血圧が二一〇未満、最低血圧が八〇未満となっています。また、最高血圧一二〇以上一三〇未満、最低血圧八〇以上八五未満を「正常」とし、さらに最高血圧一三〇以上一四〇未満、最低血圧八五以上九〇未満の場合を「高値正常」としています。

高値正常とは、正常の範囲には含まれるものの少し高めで、正常と高血圧の境界域と考ることが出米ます。しかし、放置しておくと高血圧になる恐れがあるばかりでなく、徐々に血管が障害されていきますから、決して安心はできません。この境界域に相当する人は、それ以上血圧が高くならないように十分に気をつけると同時に、少しずつ正常、最善のほうへ血圧を戻していくようにする必要があります。そして、最高血圧一四〇以上、最低血圧九〇以上になると、「高血圧症」に分類され、さらにこの高血圧症は「ステージ1」から「ステージ3」に分かれています。

なお、最高血圧と最低血圧が異なるステージにある場合は、高いステージに分類することになっています。たとえば、「最低血圧は九〇を越えているけれど、最高血圧は一四〇に達していないから、高血圧症ではない」ということにはなりません。このような場合、最低高圧が高血圧のステージーの値に達しているため、高血圧症のステージーと判断されます。アメリカの高血圧合同委員会の新基準について少し詳しく述べましたが、要するに従来の基準はまだまだ安心できるものではないから、より厳しい基準か新たに定められた、ということです。新基準で最も望ましいとされているのは、最高血圧二一〇未満です。

なぜ基準が厳しくなったかと言いますと、いつもは「正常」の範囲なのに何かのきっかけで血圧が急上昇して、生死の境目をさまよう事態に遭遇する人が、決して少なくないからです。血圧が急上昇するようなことがあった場合、安静時の血圧が高めでは深刻な事態を招く危険があるけれども、低いくらいに抑えられていれば、そうした心配はより少ないだろうというわけです。つまり、血圧は従来の「正常」に油断することなく、できるだけ低く保つように心がけることが、健康に欠かせない新たな常識になってきているのです。

2014年6月3日火曜日

リップマンの三角関係

アメリカの著名なジャーナリストであるウォルター・リップマン(1889-1974)は、第一次大戦直後の一九二二年『世論(Public Opinion)という書物を著わした。今日でもマスーコミュニケーション研究の、古典として知られるこの書物は、次のようなエピソードで始まっている。大洋のなかに一つの島があって第一次大戦の直前、少数のイギリス人、フランス人それにドイツ人が住んでいた。

この島では六十日に一度、イギリスの郵便船が通って来ることによって、わずかに外界との接触が保たれていた。一九一四年九月この島に住む人々の主たる関心は、新聞に掲載されていたある殺人事件の公判の結果であった。まことに平和な生活であったと言う他はない。しかし予定の船はなかなかやって来なかった。そして郵便船がようやくこの島に到着したとき、この島に住む人々は互いに敵国人になったことを知って仰天した。海底電線の通じていなかったこの島では、第一次大戦が始まったことを誰も知らなかったのである。

リップマンはこのエピソードを手掛りとして「われわれの頭のなかにある映像」と「現実」との間には常にズレが存在している、という事実を述べている。この島の住民の例でいえば彼らの頭のなかにあった映像は、戦争のない平和な世界であった。だからこそ彼らの最大の関心事は、殺人事件の公判の結果だったのである。しかしながら現実の世界においては、既に第一次大戦が開始されていた。

そしてイギリス人とフランス人は、ドイツの敵国人になっていたのである。このようにわれわれの頭のなかの映像と、現実とのギャップを語るリップマンは、われわれの生活は次のような三角関係によって、成り立っているという。つまり「われわれの頭のなかにある映像」、「その映像に向って働きかけるわれわれの行為」、それに「現実の世界」、この三つの要素の三角関係によって成り立っているという。

私はこのリップマンの「三角関係」の話を聞くと、バークレーの社会学教授であったハーバートーブルーマー(Herbert Blumer 1901)のことを思い出す。ブルーマー教授に私が教室で初めて会ったのは一九六五年の冬、私がスタンフォードで修士号を得て、バークレーの社会学部の、博士コースに入学した時だった。あれはスタンフォードのセミナーのように、夜の七時半から始まる社会学理論の講義であった。

2014年5月22日木曜日

東アジアの安全保障をどうするか

東アジアの力の空白を埋めるべく、覇権の手をこの地に伸ばしてくる潜在的脅威は中国なのではないか、という惧れがしだいに強いものとなっている。理性的に考えれば、現下の中国の軍事力増強は、みずからの経済力の身の丈に合わせての増強であり、しかもしばらく前のあの老朽化した「水口」のごとき軍隊のことを顧みれば、中国の試みている軍事の近代化は理解をこえるものではない。

冷戦期の直中であれば、すべての国ぐにが当然とみなしたであろう中国の軍事力増強の動きが、甚大な脅威であるかにみえてしまうところに、脱冷戦期の不安定性の「心理学」がある。ASEANの「小国」が、この平和なアジアにあって、史上稀にみる軍事力の増強を図っているのは、脱冷戦期の不安定心理をなによりも端的に物語っている。

一九九四年七月、バンコクで「ASEAN地域フォーラム」が、ASEANの主導で開催された。私は、この地域に関心をもつ一八の国を集めたこのフォーラムのことを、「大国支配」のもとにあった小国群がイニシアティブをもってのぞんだ初の「新政治秩序構築」への動きである、などといった決まり文句で語りたくはない。むしろ、力の空白が生んだ脱冷戦期の不安定感を、関係諸国の「顔」を見合わせることによって、少しでも拭いたいという消極的な動きだとみている。CSCE(全欧安保協力会議)にみられるような、「構想」らしきものが提起される気配がこの会議にあったであろうか。率直にいって、ただ集まったことに意味があるかのごとくであった。

おそらく中国を別にすれば、東アジアのすべての国ぐにが、みずからの安全保障の「ラストーリソート」としてもっとも厚い信頼をよせているのが、アメリカであることはうたがいない。脱冷戦期において、ともすれば東アジアへの安全保障上のコミットメントを希薄化させかねないアメリカを、いかにここに引きとめるか。これが力の空白の東アジアを本当の不安定に陥れない、想定しうるほとんど唯一の方策なのである。ひょっとして、中国とてみずからの「覇権主義」を顕在化させない「保障」として、アメリカがアジアに安全保障上のコミットメントをつづけることを、密かに願望しているのかも知れないのである。

2014年5月2日金曜日

天性のヒューマニスト

話はさかのぼるが、一九五一年四月のことである。岡山県では折から県知事選が行なわれ、県下は三木(行治)か有力な対立候補かに二分されていた。二人の立候補者は県下を隈なく選挙運動のため走り回っていた。選挙も中盤になったある日のことである。県北で演説をしていた三木候補のトラックに一人のおじいさんが近づいてきた。なにやら紙を振りながら一声大きく「三木先生、これが先生に書いてもろうた処方です。あのときのご恩は忘れやしませんぞな。この地区の票は引き受けましたぞ」と叫んだ。おじいさんの手と三木候補の手はガッチリと結ばれた。

話は選挙のときから十数年さかのぼる一九三五年ごろの話である。当時三木さんは若手の医師として岡山簡易保険相談所長(いまの保健所の前身)をしていた。名医のほまれの高かった三木さんのところには患者が殺到した。三木さんは患者には必ず薬の処方漆を書いて近くの薬局で薬を買うようにすすめた。そうしたほうが医師が投薬するより安くついたのである(当時は健康保険に加入している人はごくわずかだった)。知事選挙のとき候補者のトラックに処方瀋を持って現われたおじいさんは、このように十数年前に三木さんの診療を受けて持病の胃潰瘍が治った患者だったのである。

三木さんは童顔だったが、それが患者にやさしい印象を与え、また同時に太っていたのでそれがたのもしく見えたという。脈をとり、ほほえみながら「大丈夫ですよ。すぐによくなりますから……」と話しかける。それからゆっくり診察しながら患者の家庭の状況などをきく。患者が自分のペースにはまったところで、病気の説明をして、最後にもう一度「大丈夫、すぐよくなりますよ」といって診察室の戸口まで送って出て「お大事に……」という。

患者の気持になって診察するこの三木さんのやり方は一九二九年に岡山医大を卒業以来、一貫して変わらなかったという。一九三〇年七月に徳島県の小松島診療所長を命じられて赴任したが、わずか七~八ヵ月の在任期間中にすっかり住民の信頼を集めて、開業医が二人も廃業したという。天性のヒューマニストであり、患者の心理のよくわかるドクターだった。

2014年4月17日木曜日

市民意識の統合のシンボル

まだまだ問題がある。膨大な資金を要するが、人口急増による財政難に悩む市が負担できるかどうか。必須の事業でないこうしたものに、市民の税金をぶりむけることが妥当かどうかという点もある。そのうえ、球場を拡張すると、公園内にある米軍の接収地であるチャペルセンターや、県立の武道館にもかかり、移転させなくてはならない。近くの病院の問題、交通渋滞の処理、駐車場など具体的な難問は山積しており、これらをすべて解決するととは困難であった。

こうしたたかでは数年間、市長一人が独走という形で経過していた。私も慎重論の一人であったし、市の幹部にも同様の人びとが大勢である。「ここにも反対者が一人いるが、どうしても横浜の子供たちのためにプロ野球場をつくるんだ」と、私を横目に見て市長は公衆の面前でもよくそういっていた。

しかし「つくる、つくる」といっても、理念的にも整理され、実務的にも可能な条件があるていどにととのわなければならない。困難な問題を突破していったことは多くあるが、プロ野球場は市がどうしても強引に突破してゆくという性質のものではない。現状では問題が多すぎる。それなら緑豊かな都市公園としておいて、アマチュア球場のそう大きくないものは別の土地につくればよい、と考えていた。

ただ、私はプロ野球場そのものに反対ではない。かつて大阪の民間会社にいたとき、会社所有の野球場を拡張して、パシフィックリーグのプロ野球場への改修計画を担当したことがある。また、横浜のように他所から移住して急激に人口が膨張し、しかも東京方面への通勤者が多いという状況では、市民意識が育だないのは、やむをえないところである。都市地域も拡大して、ミナトとは縁のない人びとも多くなった。

ミナトだけを市民意識の統合のシンボルとするのではなく、なにかそれ以外にも市民意識を統合し、市民の気持を結集してゆくものがほしいものである。そこで地元のプロ球団をもつことは、市民の話題になり、まとまりのない市民の意識を連帯させることができるかもしれない。とくに子供たちにとっては、そうであろう。もちろん市民意識の連帯を、プロ野球だけに頼るのではないが、三〇〇万人もの大都市にはいろいろな手段が必要であり、プり野球はそのひとつにはなりうるだろう。

そこで、横浜公園以外に適地がえられないかどうか、あたってみることにした。物理的にはプロ野球場が嵌め込めそうな数力所の候補地が拾いだされた。いろいろやってみると、周辺道路が十分でないとか、鉄道駅から遠すぎて輸送の便がわるいとか、周辺の住宅地に影響がでそうだとか、万全の適地はない。おまけに、どういう資金で土地を取得するかが頭の痛い話である。地価が高すぎるのである。