2013年11月5日火曜日

登山永久禁止条例

そもそもブータンの開国、それに続く近代化は、ブータンが自ら欲したものではなく、歴史的状況という抗しがたい外圧により、やむなく始まったものである。ブレタンはチベット文化圏の一部であるが、例外的にヒマラヤ山脈の南斜面に位置し、気候・地勢的に非常に変化に富み、伝統的な農業・牧畜国としては例外的に豊かな国であった。植民地化されることもなく、アジアの多くの国にとって激動の時代であった第二次世界大戦の間も、全く隔離されたまま平穏な生活を享受した。これが一変したのは一九五九年で、この年、中国軍がチベットに進入し、チベットの政治的・宗教的指導者ダライーラマ十四世がインドに亡命するという、いわゆるチベット動乱がおこった。

この時点で、ブータンはそれまで歴史的にもっとも繋がりの強かった北のチベットとの国境を封鎖せざるをえなくなり、一転して南のインドに活路を見出すことになった。インドにとっては、中国の勢力がヒマラヤ山脈を越えて南下するのを防ぐことが至上命令となり、ブータンの東に位置するNEFA(North Eastern Frontier Agency北東国境特別地区、現在のアルナチャループラデシュ州)の軍事施設を強化し、警備・防衛に当たった。時のインド首相ネルーは、一九四七年の独立後初めてブータンを訪れ、ブータンも同様に中国勢力の侵入を阻止すべく軍事措置を講ずる必要性を説いた。しかし軍事力が皆無に等しかったブータンができることは、ほとんどなく、そこでインドは軍事・開発援助を申し入れ、ブータンはそれを受け入れた。そしてまず第一に、インド国境からパロとティンプに通じるブータン最初の自動車道路の建設に、全国民を動員して取りかかった。これはブータンにとっての歴史的大転換であり、近代化・経済発展の始まりであった。

こうしてインド側の軍事・政治上の必要に迫られて始まった開発計画は、一〇年ほどの間にブータンを中世的隔離状態から、一挙に現代の国際社会に引きずり込んだ。このインド主導の急激な変動、近代化の中にあって、ブータンは自らの進路を深く考える余裕もなかった。こうした状況の中で、「近代ブータンの父」第三代国王ジクメードルジエーワンチュック(一九二八年生まれ。一九五二年即位)が一九七二年に急逝した。その後を継いで二八歳で即位した第四代国王は、近代化・経済発展に関して、父王とは異なった独自の考えを持っていた。その特徴を一言で言えば、開発は必須であるが、それが伝統的文化、生活様式を犠牲にすることがあってはならないということである。

以後ブータンの開発事業は、すべてこの方針に従い、長期的な視点に立っての国民の利益を最優先することに主眼がおかれている。それを最も象徴的に物語るのは、登山永久禁止条例であろう。一九八〇年代初めに、観光政策の一環として登山が解禁された。ブータンには八〇〇〇メートルを超す高峰こそないが、世界の八〇〇〇メートル級の山々がすべて登頂された後、当時は残る七〇〇〇メートル級の未踏処女峰が世界中の登山家の垂誕の的となっていた。ブータンにはこれに該当する山がいく座もあり、登山隊が殺到した。大地の開閥以来そこにある山々が、一躍にして外貨獲得の一大観光資源となったわけである。

当時一人一日一〇〇ドルの料金体制であったブータン観光は、数人のグループが数日間滞在するというのが一般的であった。だから、一グループ当たりの収入総額は少なかったが、それでもブータンにとってかなり大きな比重を占める、かけがえのない外貨収入源であった。登山隊にたいしては、ホテル泊ではなくテント泊の期間中は、トレッキング料金が適応され、普通の観光料金よりは安くなったが、それでも登山隊は少なくともI〇人、多いときには二〇人を越える大グループであり、滞在期間は一ヵ月から二ヵ月に及んだので、観光収入は一挙に急増し、登山ブームはブータンに多大な外貨をもたらした。こうしてブータンも、ネパールのようにヒマラヤ登山で長期的に外貨収入が見込めるかに思えた。しかしこのブームは、二年ほどしか続かなかった。その最大の問題はポーターである。