2013年8月28日水曜日

美しい夕陽も一〇〇回見れば飽きてくる

地元不動産業者は笑った。「山原」で売り家が一軒あった。「土地二〇〇坪、建物四〇四㎡」の看板を見て、業者に連絡してみたのだが、価格は「九三〇〇万円です」という。ちなみに排水の件を尋ねると、やはり下水管がないため、汲み取ってもらうか、沈殿槽に溜めるしかないという返事だった。「山原」地区では、インフラが整備されていないのに売買されたため、家を建てたが排水ができないといったトラブルが発生していた。本土の感覚で、家を建てたら下水ぐらいは引いてくれるだろうと思ったら大間違いなのである。石垣市にはそんなところまで下水管を引くような余裕はないのだ。

値段も値段だが、私はこの裏石垣に家を建てようと思うことに首をかしげた。なぜなら、島の北側は台風が上陸すると猛烈な風が吹き荒れ、昔から島の人も敬遠した場所なのだ。実は戦後、米軍基地のために読谷や嘉手納から追い出されてこの石垣島に移り住んだ沖縄人がたくさんいる。もちろん今も住んでいるが、当時の琉球政府はろくに調査もせず、裏石垣なら土地もあるだろうと、斡旋したのである。九〇年代の初め、裏石垣に国内移住した一家を取材した。そのときの老人は、顔をこわばらせてこう言ったのだ。

「入植して何年かした年だった、家の中で台風が過ぎ去るのを待っていたら、いきなりふわっと浮き上がったような気がした。慌てて外に飛び出したが、ものの数秒もしないうちに二、三メートルも持ち上げられ、いきなりドスンと音がしてわが家はバラバラになった。ここは風速四〇メートルぐらいの台風でも、裏の山脈にあたって増幅するらしく、実際は六〇メートルにもなる。あんな恐ろしいことはなかった」実際に観測記録で風速五〇メートルの台風が、風が逆巻き、七〇メートルになることはよくあったらしい。さすがに今はコンクリートづくりだから家屋倒壊には至らないが、それでも風速七〇メートルともなると尋常ではない恐怖を体験する。ちなみに、台風が直撃するたびに何人かの移住者は本土へ引き揚げていくそうである。

さらに、観光で何日か滞在したときは、東シナ海に落ちる美しい夕陽にうっとりしても、実際に住めば、毎日のように眺めることになる。一〇〇ぺんも見ればさすがに食傷気味になって、かつての感動的な光景も鼻についてくる。趣味でもあれば別だが、風景にも飽き、これといった仕事もなければ「癒しの島」が退屈な地獄に変わる。裏石垣ともなれば、近所にスーパーも飲食店もなく、買い物に行くにも石垣市内まで車で四〇分はかかるだろう。夜は車のライトを消せば、底が抜けたような暗闇に包まれる。ただ「することがない」時間だけが過ぎ去っていき、それに堪えられる都会人はいったいどれほどいるのだろうか。

いくら金があっても「することがない」生活ほどつらいものはない。リタイアしたと言っても、六〇代なら体も不自由なく動かせるはずだ。それなのに、せいぜい石垣市内まで車を飛ばして飲みに行くぐらいしかない。こんなはずじゃなかったと気づくのは、こんなときだそうである。ふと、自分に何かできるだろうかと移住者たちは考える。ところが、ビジネス戦線を生き抜いてきた彼らに、手に職のある人間などめったにいない。 「珈琲ぐらいなら俺にも滝れられるだろう」そう気づいた移住者は、自宅を改造して喫茶店をはじめる。「山原」には、客がいないのに、素人の手慰みではじめた喫茶店がずらっと並ぶ通りがある。料理が上手なオーナーなら観光客も入るようだが、ほとんどは閑古鳥が鳴いている有様だ。地元ではこの一帯を「リトル東京」と呼び、喫茶店が並んだ通りは「カフェロード」と呼ばれていた。