2014年5月2日金曜日

天性のヒューマニスト

話はさかのぼるが、一九五一年四月のことである。岡山県では折から県知事選が行なわれ、県下は三木(行治)か有力な対立候補かに二分されていた。二人の立候補者は県下を隈なく選挙運動のため走り回っていた。選挙も中盤になったある日のことである。県北で演説をしていた三木候補のトラックに一人のおじいさんが近づいてきた。なにやら紙を振りながら一声大きく「三木先生、これが先生に書いてもろうた処方です。あのときのご恩は忘れやしませんぞな。この地区の票は引き受けましたぞ」と叫んだ。おじいさんの手と三木候補の手はガッチリと結ばれた。

話は選挙のときから十数年さかのぼる一九三五年ごろの話である。当時三木さんは若手の医師として岡山簡易保険相談所長(いまの保健所の前身)をしていた。名医のほまれの高かった三木さんのところには患者が殺到した。三木さんは患者には必ず薬の処方漆を書いて近くの薬局で薬を買うようにすすめた。そうしたほうが医師が投薬するより安くついたのである(当時は健康保険に加入している人はごくわずかだった)。知事選挙のとき候補者のトラックに処方瀋を持って現われたおじいさんは、このように十数年前に三木さんの診療を受けて持病の胃潰瘍が治った患者だったのである。

三木さんは童顔だったが、それが患者にやさしい印象を与え、また同時に太っていたのでそれがたのもしく見えたという。脈をとり、ほほえみながら「大丈夫ですよ。すぐによくなりますから……」と話しかける。それからゆっくり診察しながら患者の家庭の状況などをきく。患者が自分のペースにはまったところで、病気の説明をして、最後にもう一度「大丈夫、すぐよくなりますよ」といって診察室の戸口まで送って出て「お大事に……」という。

患者の気持になって診察するこの三木さんのやり方は一九二九年に岡山医大を卒業以来、一貫して変わらなかったという。一九三〇年七月に徳島県の小松島診療所長を命じられて赴任したが、わずか七~八ヵ月の在任期間中にすっかり住民の信頼を集めて、開業医が二人も廃業したという。天性のヒューマニストであり、患者の心理のよくわかるドクターだった。