矛盾するようですが、八千分の一秒のシャッタースピードが刻まれるよりも、1/250秒までストロボが同調するようになったほうが嬉しいと思うのは筆者だけでしょうか。全開の瞬間が1/250秒ということは、それ以上の高速には、昔のフラッシュバルブ(閃光電球)のようにストロボ光を燃やしつづければ、対応できるという理屈になります。そこで開発されたのがスーパーFP発光という、約1/25秒間、細かく連続発光するストロボです。ごく最近のカメラにかぎりますが、FP発光装置が組み込まれているクリップオン型ストロボと組み合わせて使うことができます。
四千分の一とか八千分の一といった数字は、単なるカメラのアクセサリーのような気がしてなりません。現時点で写真を楽しむのなら、むしろ低速の方が自然ではないかと考えるからです。人間の目は、動くものを瞬間的に止めて見ることはできません。目で追うことで、全体像をつかんでいるだけです。超高速シャッターを使えば、弾丸がガラスを突き破る瞬間の撮影も可能ですが、そうなるとまた別のジャンルの写真ということになるのではないでしょうか。
低速で撮った写真も、ある瞬間を切り取ったものであるには違いありませんが、どこか時間の経過を感じさせるものがあるからこそ、われわれも無理なく受け入れることができるのだと思います。運動選手の手足のブレは、まさにわたしたちが見ている状態そのものです。月の光だけで長時間露出した写真も理屈抜きに理解できるのは、同じ時間の中に生きていると実感できるからでしょう。
もしIS01000が現在のISO100並の画質になり、千分の一秒が普通のシャッタースピードになるような時代になったとしたら、巷にあふれる写真のすべては切り絵のような、動きのない平板なものになってしまうのではないでしょうか。オリンピックでいかにスピードを競う種目でも、その差はせいぜい百分の一秒までです。千分の一秒でも計測は可能でしょうが、百分の一秒まで同タイムであれば金メダルを与えると決めたことには、人間の判断の限界はここまでという謙虚さが感じられます。
日本では、フィルム会社や新聞社、都道府県の自治体、財団、企業などが主催・後援する写真コンテストが、あちこちで開催されています。ある新聞社が主催する小中高校生が対象の「子供写真コンテスト」では盾と賞状が贈られていますが、六十歳以上が対象の「シニア写真コンテスト」の賞品はカメラです。ある財団が主催する「スポーツフォトコンテスト」の特賞の賞金は、なんと五百万円也。コンテストといっても実にさまざまです。必ずその人に合ったコンテストがあるはずですから、まずは身近なところに応募して腕試しをしてみたらどうでしょうか。写真は、その人独自の言葉だともいえます。ですから応募するときは、募集要綱をよく読んで趣旨を理解した上で、自分が伝えたい言葉が十分に盛り込まれていると思われる作品を選んで送ります。
2012年12月25日火曜日
夫の出産参加のもたらす意義
出産は産婦の身体を中心とした生理現象であり、出産のための生理機構がスムーズに働くためには、産婦の身体の緊張をとって身体をリラックスさせ、生理作用を早く進行させて、出産を終わらせることが必要だ。身体と心が密接に関係しているのは衆知の事実で、誰だって不安で固くなった心を持ちながら、身体だけゆったりとリラックスすることなど、できるものではない。
それを考えれば、産婦に安心感や、真の励ましを与え、真剣にわが子の誕生に立ち会いたいと考える夫なら、いや夫でなくてもよい、産婦の心に勇気と安定感を与えられる姉妹や友人たちなら、出産参加は分娩のスムーズな進行のために大変役立つわけである。論文としてもいまはもうその種の研究は珍しくない(例えば、『助産婦雑誌』一九九〇年八月号、医学書院)。また「衛生管理上の問題云々」という点について言えば、助産者や看護者と同じ清潔な服装でのぞみ、服装から露出している部分(顔、手など)の清潔さに、同じだけの注意を払いさえすれば、何ら問題はない。赤ちゃんは私たちの住む世界で生きていくのであり、無菌室で育つわけではない。
夫の出産参加はこのように産婦(妻)への有効性もさることながら、それは夫自身の大きな変化にも顕著につながっている。先で述べたように、私か一九八四年夏から一九八八年までに調査した大洲市上須戒地区という山村では、伝統的に夫が妻をかかえて二人でか産するという習俗が行なわれていた。大戦末期に開業した産婆(後に助産婦)も、お産の姿勢だけは坐産から仰臥位産へと変更させたものの、伝統的な夫婦協力型出産方法については、彼女が老齢のため引退したほんの二、三年前まで、実践し続けたという出産事情があった。したがって随分年輩のおじいちゃんたちが、時代の最先端をいくラマーズ法も顔負けの、出産法を体験していたのである。
「女の人は偉いですよ。お産というのは大変なものです」(八九歳氏)、「お産というのはいやあ大変なもんだ。ああやって難儀して生まれた子には特別、情が深こうなる」(七七歳氏)、「女の一番大変な時(有産)に男がそばにいてやるのは当たり前でしょう」(七六歳氏)、「誕生したときは涙がでて止まらなかった。子どもがこんなに愛しいと思ったことはない」(七〇歳氏)、「最初は仕方なしに手伝ったけど、こんなに苦しんで産むのか! 一緒にいきんでやってよかったと思った。このつらさはいくら人に話してみても、体験してみないとわからんだろう」(六七歳氏)とそれぞれ感想を述べているように、参加体験がそれまでの出産観を大きく真実に向かって好転させているのがわかる。
それを考えれば、産婦に安心感や、真の励ましを与え、真剣にわが子の誕生に立ち会いたいと考える夫なら、いや夫でなくてもよい、産婦の心に勇気と安定感を与えられる姉妹や友人たちなら、出産参加は分娩のスムーズな進行のために大変役立つわけである。論文としてもいまはもうその種の研究は珍しくない(例えば、『助産婦雑誌』一九九〇年八月号、医学書院)。また「衛生管理上の問題云々」という点について言えば、助産者や看護者と同じ清潔な服装でのぞみ、服装から露出している部分(顔、手など)の清潔さに、同じだけの注意を払いさえすれば、何ら問題はない。赤ちゃんは私たちの住む世界で生きていくのであり、無菌室で育つわけではない。
夫の出産参加はこのように産婦(妻)への有効性もさることながら、それは夫自身の大きな変化にも顕著につながっている。先で述べたように、私か一九八四年夏から一九八八年までに調査した大洲市上須戒地区という山村では、伝統的に夫が妻をかかえて二人でか産するという習俗が行なわれていた。大戦末期に開業した産婆(後に助産婦)も、お産の姿勢だけは坐産から仰臥位産へと変更させたものの、伝統的な夫婦協力型出産方法については、彼女が老齢のため引退したほんの二、三年前まで、実践し続けたという出産事情があった。したがって随分年輩のおじいちゃんたちが、時代の最先端をいくラマーズ法も顔負けの、出産法を体験していたのである。
「女の人は偉いですよ。お産というのは大変なものです」(八九歳氏)、「お産というのはいやあ大変なもんだ。ああやって難儀して生まれた子には特別、情が深こうなる」(七七歳氏)、「女の一番大変な時(有産)に男がそばにいてやるのは当たり前でしょう」(七六歳氏)、「誕生したときは涙がでて止まらなかった。子どもがこんなに愛しいと思ったことはない」(七〇歳氏)、「最初は仕方なしに手伝ったけど、こんなに苦しんで産むのか! 一緒にいきんでやってよかったと思った。このつらさはいくら人に話してみても、体験してみないとわからんだろう」(六七歳氏)とそれぞれ感想を述べているように、参加体験がそれまでの出産観を大きく真実に向かって好転させているのがわかる。
2012年9月6日木曜日
人がなにかに頼りたくなるとき
石川さんは、次のような問いかけをされています。「心理療法の仕事がここ数年で日陰の存在から表に立だされる存在へ変化したという実感があります。やっと理解されるようになったという思いと同時に、とまどいもあります。私たちはこれからどのようなことに気をつけていけばいいのでしょうか」
もともと心理療法には、陰の仕事みたいな要素があります。縁の下の力もち的な存在であるべきもので、正しく理解されるのは歓迎すべきことですが、かといって、それがあまり表に出てきて威張りだすと、ろくなことはありません。
「私にはわかります」とか、「私には治せます」、「私がしてあげます」などと慢心し、傲慢になっていたら、いっぺんにだめになると思います。そういうことに対する自戒の念をいつもはっきりともっている必要があります。
私たちはそれなりに専門の勉強をし、訓練も受けていますから、素人の人がびっくりするくらいのことは言えます。しかし、そういうことを得意になってしゃべり、それで喜んでいたのではどうしようもありません。
カウンセラーやセラピストをよそおっだ詐欺師も困りものですが、ペテン師まがいの心理学者はもっと有害です。
社会が不安になると、みんな、どうしてもなにかに頼りたくなります。自分で考え苦しんでいるより、なにかに頼るほうが楽だからです。そこに落とし穴があるわけで、詐欺まがいのことは、やろうと思えばいくらでもできます。
だいたい人間というのは、ほとんどの人が催眠にかかりますから、類似催眠状態にすればいろいろな劇的なこともある程度可能です。
学校へ行かなかった子が翌日から行くようになったとか、夜尿がピタリととまったとか。軽い場合は、それでもいいかもしれませんが、重い場合は後でぶり返しが来て、非常にむずかしくなります。
もともと心理療法には、陰の仕事みたいな要素があります。縁の下の力もち的な存在であるべきもので、正しく理解されるのは歓迎すべきことですが、かといって、それがあまり表に出てきて威張りだすと、ろくなことはありません。
「私にはわかります」とか、「私には治せます」、「私がしてあげます」などと慢心し、傲慢になっていたら、いっぺんにだめになると思います。そういうことに対する自戒の念をいつもはっきりともっている必要があります。
私たちはそれなりに専門の勉強をし、訓練も受けていますから、素人の人がびっくりするくらいのことは言えます。しかし、そういうことを得意になってしゃべり、それで喜んでいたのではどうしようもありません。
カウンセラーやセラピストをよそおっだ詐欺師も困りものですが、ペテン師まがいの心理学者はもっと有害です。
社会が不安になると、みんな、どうしてもなにかに頼りたくなります。自分で考え苦しんでいるより、なにかに頼るほうが楽だからです。そこに落とし穴があるわけで、詐欺まがいのことは、やろうと思えばいくらでもできます。
だいたい人間というのは、ほとんどの人が催眠にかかりますから、類似催眠状態にすればいろいろな劇的なこともある程度可能です。
学校へ行かなかった子が翌日から行くようになったとか、夜尿がピタリととまったとか。軽い場合は、それでもいいかもしれませんが、重い場合は後でぶり返しが来て、非常にむずかしくなります。
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